さて、今回は越谷オサム「いとみち」を読んだ感想です。
いとみち
著者:越谷オサム
カバー装画:西島大介
文庫:新潮文庫
出版社:新潮社
発売日:2013/11
相馬いと。青森の高校に通う十六歳。人見知りを直すため、思い切ってはじめたアルバイトは、なんとメイドカフェ。津軽訛りのせいで挨拶も上手に言えず、ドジばかりのいとだったが、シングルマザーの幸子やお調子者の智美ら先輩に鍛えられ、少しずつ前進していく。なのに! メイドカフェに閉店の危機が──。初々しさ炸裂、誰もが応援したくなる最高にキュートなヒロインの登場です。
読んだ感想
もともと人見知りが激しく、中学時代には訛が強いためそれを馬鹿にされてきた少女「相馬いと」が、高校生になったのをキッカケに、それらのコンプレックスを克服する物語。
コンプレックス克服方法として選択されたのが、メイド喫茶でのアルバイト。
「おかえりなせえまし、ごすズんさま」
訛の強い少女がいうと「おかえりなさいませ、ご主人様」がこうなってしまう。また、なれない革靴に戸惑い、掃除中にコケてしまうようなドジっ娘ぶり。しかし、彼女には誰にも負けない特技があった。中学生時代にそれなりの規模のジュニア大会で審査員特別賞を受賞したくらいの、津軽三味線の腕前。
先輩メイドいわく「背がちっちゃくて黒髪ロングでメイド服で貧乳で泣き虫でドジっ娘で方言スピーカーで、おまけに和楽器奏者?あんた超人か」
このラノベに出てきそうな主人公が、メイド喫茶で悪戦苦闘しつつも、店長やオーナー、先輩メイド、親友、そして祖母に支えられつつ、成長していく姿が丁寧に描かれている。
この主人公が持つコンプレックスは、訛の強い津軽弁、人見知りな性格、「いと」という名前、それにくわえ特技の三味線演奏における姿。股をガバっと広げるスタイル、複雑なフレーズを弾くときの、目を閉じて歯を食いしばる表情。写真に映る自身の姿は、思春期の少女にとっては恥ずかしいものだった。
物語が進むに連れ、これらのコンプレックスは次第に解消される方向に向かっていく。人見知りな性格ではあるが、そもそもメイド喫茶のアルバイトに応募し、三味線演奏では大会に出て人前で演奏するなど、引っ込み思案ではない。人見知りな性格はメイド喫茶で店長や先輩メイドたち、お客とのコミュニケーションを繰り返すことで解消されていく。
この店長やオーナー、先輩メイドたち、みんないい人。シングルマザーの先輩メイドは、ちょっとおっかないけど、しっかりと面倒を見てくれるし、漫画家を目指しているお調子者の先輩メイドは、なんやかんやと場を盛り上げ、主人公をフォローしてくれる。店長は実直な人、オーナーは見た目はちょっと…だけど、メイド喫茶では誠実な商売をしようとしている。第2巻以降で、更に詳しく描かれることになるのだが、それぞれに苦い思いをしてきているだけに、主人公を暖かく見守っているように感じる。
また「いと」という名前、三味線の演奏スタイルにはそれぞれ理由があって、これらを知った時にこのコンプレックスからは開放される。で、残るのは「おかえりなせえまし、ごすズんさま」だけなのである。これを克服できるのかは、読んで確認して欲しい。
読み終えてまず感じたのは、良い青春成長物語だなと。基本的に悪人はいなくて、皆それぞれ欠点や苦い思い出があるけれど、それを乗り越えていこうとする物語。主人公は「背がちっちゃくて黒髪ロングでメイド服で貧乳で泣き虫でドジっ娘で方言スピーカーで、おまけに和楽器奏者?あんた超人か」なラノベ的キャラ立てだけど、それ以外の人物はリアル。
文庫解説でタニグチリウイチは「ラノベと一般文芸のあいだ」といった切り口でこの作品を紹介している。一般文芸よりキャラ立ちは強いけど、ラノベほど全てにおいて非現実的、突飛(注:ラノベがすべてそうというわけではない。あくまでイメージ)ではないということだろう。それゆえに読んでいて共感できる部分が多い。誰しも若い頃はコンプレックスがあって、それを克服する姿をこんなに楽しく、あるいは涙をにじませつつ読めるのは幸せな読書体験である。
さて、この作品は一人の少女がコンプレックスを克服する物語であると同時に、得意の三味線でお店の危機を救う、痛快音楽小説でもある。ただ、残念なことに演奏スタイルが恥ずかしいというコンプレックスに主人公がとらわれているため、終盤手前までは三味線を手にするシーンがなく、軽いエンタメ作品を求める方には終盤手前までは退屈と思われるかもしれない。しかし、それ故に終盤の三味線演奏シーンが爆発するわけである。
本作中、三味線演奏シーンは少ないのだが、その数少ない演奏シーンこそが、個人的にはこの作品の見せ場であると思う。序盤、祖母の演奏シーン。
ベンベケベンッ
単調な音の繰り返しから一転、ハツエは弾力に富んだ旋律を叩きだした。この、調絃から曲に飛び込む間が祖母は絶妙なのだ。
右手に持った撥が三本の糸を激しく叩く一方で、左手は素早く棹を駆け上がり、駆け下りる。「津軽じょんがら節」だ。霰が降るような粒の立った音と、古老の津軽弁のようにねっとりと上がり下がりする音が、早口で語られるメロディの中にバランスよく混在する。たった三本の糸で演奏されているようには、どうしても聞こえない。(p.53-54より)
もうこの部分を読んだだけで、すげぇと。本を読んでいる時に、あまり表現がカッコいいとか思わないほうだのだが、ここは本当にカッコいいと思う。惜しむらくはこの後、三味線の演奏シーンがなかなか登場しないことだ。ちなみにこの祖母、主人公に三味線の手ほどきをした人物であるが、ヴァン・ヘイレンが大好きな凄腕三味線弾きである。
終盤、メイド喫茶でのミニコンサートに向けて、主人公が練習するシーンも素晴らしい。ここは長いので引用は控えるが、主人公と祖母とのセッション。ギタリストはギターで会話するなんて言われるけど、それと同じように三味線で会話しているのが最高に良い。なお、ヴァン・ヘイレン好きな祖母が、ヴァン・ヘイレンの曲を演奏の間に入れ込んだりして応酬するシーンも楽しい。
そして、物語終盤の主人公の演奏シーン。
「イヨッ」
掛け声をきっかけに、速度を上げた。稽古で積み重ねてきた技法とこの場での直感を混ぜ合わせ、三本の糸をまんべんなくカマす。(中略)力の入れどころと連動して体が激しく動く。足がリズムを刻み、頭が振られる。撥さばきと指使いの複雑に絡まり合ったフレーズをケレン味たっぷりにカマすたびに、 拍手が波のように押し寄せる。
(中略)
いったん棹先近くで指を控えさせ、撥を振り続けながら呼吸を整える。蹄で土を掻く闘牛のように力を溜めると、いとはとどめとばかりにローポジションからハイポジションまで駆け上がり、駆け下り、また駆け上がった。カマシを続けながら最小から最大へと音量を一気に上げ、最後に三本の糸をまとめて叩き、叩き、叩き、叩いて曲を締めた。
短い残響音が消えぬうちに、耳を圧する拍手が店内に鳴り響いた。(p.356-357より)
読んでいて、いとのテクニックが見えるし、三味線の音や観客の拍手が聞こえてくる。かつて漫画『to-y』や『BECK』でも感じた感覚。最高の演奏シーンである。
コンプレックスを抱えた少女がそれを克服するとともに、得意の津軽三味線で無双する、こんなの面白すぎる、ズルいやんともいえる、青春エンタメ小説である。
映画「いとみち」
さて、「いとみち」三部作を2日間で一気読みし感動した私は、勢いそのまま映画版「いとみち」を見ました。
小説の第1巻をベースにしたこの作品は、原作にあった多数の要素から必要な部分だけを切り出し、青春映画としてなかなか良く出来た作品だと思います。「メイド」と「三味線」を軸に、友人関係の部分を若干省いて、最後の三味線演奏にカタルシスをもたせる、エンタメ作品にしています。
小説では実際は聞こえない(頭の中では聞こえてる)三味線の音が聞こえるし、メイド服に津軽三味線という絵面は強い。演奏シーンも役者さんがしっかりと弾いていて、演奏シーンは手元のアップだけ、みたいになっていないのも良かった。
ネットで検索すると、主演俳優の方、津軽三味線の特訓を受けたようで。また、青森出身ということで、訛もリアル。そういえば自転車で日本一周していた時、日本海側を秋田から青森へ入ると、銭湯なんかで喋っている地元の人の言葉が、一気にわからなくなったのだった。この映画でも、主人公と祖母の訛がつよいところは、何いっているかよくわからなかったけど、それでも面白かった。
あと小説と違って、父親の存在が大きめになっているけど、このあたりは役者として、芯となる人が必要だったのかも。
しかし、である。面白く見たのだけれど、最後だけがちょっと不満。映画オリジナル要素で、演奏シーンの後、主人公と父が山に登る。どこの山かははっきりと示されていないが、多分岩木山であろう。このシーンに激しく違和感を覚えた。主人公と父の諍い、原作小説ではオムライスに「かに」の文字で、わだかまりが解ける。このわだかまりが解けるシーンとして、登山を持ってきたのだろうが、これは違うのではないか。
小説ではよく主人公が岩木山を見るシーンがある。青森市で八甲田山を見た時に、岩木山と比べるシーンもあるのだが、一度もあの山に登ってみたいというような感情を持つことはない。あの山が綺麗だから登ってみたいとか、あの山の頂上から見る景色は綺麗だろうとか、主人公が思うことはないであろう。主人公は岩木山がいつもそこに変わらぬ姿である、ということでその存在を認めていると思う。ある種の信仰、もしくは母の存在を投影しているのかもしれない。
理屈として、登山好きの父が和解のため罪滅ぼしのため誘ったということにしても、それなら主人公からの和解の気持ちにはならない。なぜこんな登山シーンを最後に持ってきたのか。ひょっとしたら、地元からの要望? それだとただの蛇足にしかならないと思う。
主人公の演奏が終わった後、万雷の拍手で終わりが良かったのではないか。ちなみに演奏後拍手の音は聞こえず、フェードアウトして登山シーンになる。拍手の音が聞こえなかったのも不満だ。
ただ、これは原作小説を知っている人間のたわ言なので、映画自体は素直に面白いと思う。
